2007年10月
2007年10月16日
マダム櫻子のワイン教室 第9回 パート3
先週、慈善病院の設立に勤しんだニコラ・ロランのことを紹介しましたが、
川上善兵衛という人物もまた、日本で生まれたワイン醸造家だけではなく
慈善活動家の1人ではないかと思います。
川上善兵衛は明治元年(1868年)新潟県上越市に生まれました。
当時、冬の上越地方は度重なる水害や冷害で農家の方は大打撃を
受けておりました。そのため、主食となるお米がとれないばかりか、
せっかくとれたお米も日本酒の原料にもまわっていたため、村長でもあった
川上善兵衛は心を痛め、凶作で苦しんでいる農民たちにもお米を食べさせて
あげたいという思いでまず、お酒の原料としてお米に代わる農産物を必死に
探し始めました。そして寒さや乾燥にも強く荒れ地や斜面にでも充分育つ
農作物…ぶどうに目を付けたのです。1890年、22歳の時です。
川上善兵衛は小作人たちを集め、畑を開墾させました。また、自らも庭園を
壊してぶどう園に作り変えました。そして外国からのぶどうをそのまま植えても
なかなか困難であることから、自らの手でぶどう品種をかけ合わせ上越の土地によりよく育つオリジナル品種をいくつも誕生させたのです。マスカット・ベリーA
とブラック・クィーンです。
それにしてもぼくは第9回のパート1の稿でヨーロッパのぶどうは粒が小さく
雨に弱いといいましたが、厳寒の地、新潟で必死になってぶどう研究に
取り組んでいる川上善兵衛の姿をイメージすると何か熱いものが体に
伝わります。
パート2でご紹介した慈善病院の大法官ニコラ・ロランの傷病人救済の方法とは異なりますが、苦しんでいる人々のために何とかして救うことに生涯を捧げたことは共通しています。
それでは今日はこのへんで。
2007年10月13日
オスピス・ド・ボーヌ・ギゴンヌ・ドゥ・サラン・マグナム99
みなさん、こんにちは。今日はマダム櫻子のワイン教室から少し外れまして、オスピス・ド・ボーヌ・ギゴンヌ・ドゥ・サラン・マグナム99というワインをご紹介します。
さて、下の写真はオスピス・ド・ボーヌ・ギゴンヌ・ドゥ・サラン・マグナム99というワインです。長い商品名ですが、ちゃんと意味があります。まずオスピス・ド・ボーヌというのはボーヌ市にあるオスピス、つまり病院です。当時は慈善病院でした。次のギゴンヌ・ドゥ・サランは、先ほどの大法官ニコラ・ロランさんの夫人の名前です。最後のマグナム99というのは1999年ヴィンテージのマグナムサイズのワインを表しています。

また、競売会の特典として落札者はそのワインのラベルに自分の名前を入れることができます。ちなみに1999年にマダム櫻子は90年代最後の年ということもありその新酒を一樽購入しました。
というわけで読みにくいかもしれませんが左にその住所と名前がローマ字で記載されています。
さて、それにしてもすばらしいと思うことは教会の役割が布教活動だけではなく、多くの人の命を救う病院の役割を果たしていたということです。そして多くの人々の意志により寄進されたぶどう畑からすばらしいワインが造られたが、それは競売会に回されることになった。しかしその収益金のお陰で病院の経費ができた。多くの命を救うことができたということです。
2007年10月03日
マダム櫻子のワイン教室 第9回 パート2
前回、シャンパンの話をするところで切れてしまいましたが、その話はまたの機会に譲ることにして、今回は慈善病院のことをとりあげたいと思います。
また、この慈善病院の内容も前回少しとりあげましたが、あまり深く説明しませんでしたので、今回はそのことを中心にとりあげます。
さて、ここからはマダム櫻子の説明になります。
そもそも慈善病院は修道院により運営されていました。当時の教会の役割は布教活動のほかに身寄りがなく病んでいる人々のケアやぶどうの栽培、ワイン醸造などの向上のための研究を行なっていたそうです。というわけで慈善病院はホームレスや行き倒れになった人々が元気になるまで無料で手当てを行うという役割をもっていました。
しかしいくら無料で行うといってもそのためには莫大な資金がなければ実施は困難でしょう。というわけで当時の大法官ニコラ・ロランさんの提唱により教会に寄進されたぶどう畑で造られた新酒のワイン樽を競売会にかけて、その収益金を慈善病院の経費に当てたそうです。
こういういきさつがあってブルゴーニュ地方では毎年11月の第3日曜日に今も残っているオテル・デュー(かつての慈善病院)という建物の前で競売会が行われています。
以上がマダム櫻子による説明でした。


